去年から、80代の父親が、精神疾患がある40代の娘を殺害した事件が3つあり、気になったので書いておきます。
正確には2つめの大阪の事件は父親だけではなく母親も加担した心中目的なのですが、ほかの事件と通じるものがあるのではないかと思います。
子供が親の介護に疲れて殺害してしまう事件が増えていますが、親が病気の子供を介護しているケースも珍しくはありません。精神疾患が増えている中で、このような事件も増えるのではないでしょうか。
事件の共通点
- 父親は80代
- 娘は40代・精神疾患あり
- 父親・娘ともに無職
- 妻(母)もいる
- 家庭内暴力を併発している
和歌山長女殺害事件
2015年2月14日
娘:当時41歳・強迫性神経症、父親:81歳
懲役3年、執行猶予5年(求刑懲役6年)
「肉体的、精神的に限界迎えた」 精神疾患の41歳長女殺害、81歳父に異例の猶予判決 傍聴席からもすすり泣く声
大阪長女殺害事件
2015年11月18日
娘:当時43歳・統合失調症、父親:87歳、母親:70歳
両親2人に懲役3年(ともに求刑・懲役7年)
87歳と70歳両親に懲役3年の実刑判決
札幌長女殺害事件
2016年3月5日
娘:当時43歳・強迫性障害、父親:81歳
懲役4年(求刑懲役7年)
娘殺害、父に懲役4年 札幌地裁、法定刑下回る判決
加害者は暴力の被害者でもある可能性がある
被害者の娘はいずれも精神疾患があり、加害者である親に面倒を見てもらっている状態でした。にもかかわらず、両親は娘から暴力や行動の制限などを受けていました。
このあたりが、求刑に対して実刑が軽くなった理由なのでしょう。
- 和歌山:暴力をふるわれていた
- 大阪:長女の浪費で経済的に追いつめられていた
- 札幌:両親の行動を制限していた
配偶者同士のDV(ドメスティック・バイオレンス)の場合、暴力には、「家の金を持ち出す」経済的暴力や、「終始行動を監視する」心理的暴力も含まれます。
DVに照らし合わせると、いずれも両親が被害者でもあったのです。
介護は、介護される側にそのつもりがなくても、介護する側の行動を制限します。
自由を奪われるという意味では、少なからず暴力を受けているようなもの。そこに介護の苦しさがあるのではないでしょうか。
この3つの事件では具体的な暴力がありました。では、暴力の被害者であれば、正当防衛的な意味で殺人を犯していいのか?そんなことを考えさせられました。
娘が40歳を過ぎて将来への希望が持てなくなったのかもしれない
もうひとつ気になったのは、被害者の娘さんがいずれも40歳代だということです。私と同じ世代なんですよね。
これは私の想像なのですが。加害者である親は、娘が40歳を過ぎたことで娘の将来に希望が持てなくなったのではないのでしょうか。
長い闘病生活を経て病気が治る見込みがない…というのもありますが、もしかしたら、精神障害があっても何かの縁があって結婚し、幸せになるとともに病気も良くなるかもしれないという、かすかな希望を抱いていたのかも知れません。
でも、娘が40歳を過ぎて、その可能性も限りなくゼロになってしまった。このまま娘が生きていても幸せになる道がない。そんな気持ちもあったのではないかと思うのです。
人は人の命を奪う権利があるのか
相模原障害者施設殺傷事件が起こり、私はもう一度、介護殺人について考えこんでしまいました。
あの残酷な事件と、この3つの事件を並べるなんてと思う人もいるかもしれません。けれども、人が人の命を奪ったことには変わりはありません。
親だから子供の命を奪ってもいいのか。養っていれば・介護していればいいのか。
精神疾患を抱えていては生きている意味はないのか。
生きている価値は人から判断されるのか。
私自身が強迫性障害でどうしようもなくなったときに、生きている意味について考えたから、気になってしまうのです。
あのとき誰かに生きている意味がないと言われたら、その通りだとうなずくしかできなかったでしょう。
しかし、生きる権利を奪われそうになったら、必死で抵抗したでしょう。それは私が持っている権利であり、私が決めることだからです。
でももし、私が一人で生活できなくなり、親に介護されるようになっていたら?親に大きな負担をかけたであろうことは間違いありませんし、その生活がずっと続くとしたら、私も親も絶望的になるでしょう。
この3つの事件の原因は、苦しい介護生活を改善する道が見つからなかったことが大きいように思います。介護の支援がしっかりされるようになって欲しいと願います。
精神障害者移送サービスをしている人の本です。サービスは高額なのでなかなか受けられないかと思いますが、精神障害の子供を持つ親の体験や行政の仕組みがわかります。