強迫性障害は「やめたいのにやめられない」と言われています。が、それってよくないのではないか?と思ったので、私の考えを書いてみます。
強迫性障害は必要がないことをやりたくなる病気
強迫性障害とはどういう病気か?というのは、たいてい以下のように説明されます。
強迫性障害|疾患の詳細|専門的な情報|メンタルヘルス|厚生労働省
強迫観念は無意味ないし不適切、侵入的と判断され、無視や抑制しようとしてもこころから離れない思考や衝動およびイメージなどで、強迫行為はおもに強迫観念に伴って高まる不安を緩和および打ち消すための行為で、そのばかばかしさや、過剰であることを自ら認識してやめたいと思いつつも、駆り立てられる様に行う行為です。
患者自身も、ばかばかしい、過剰であることをわかっている。やめたいと思っている。それなのに自分ではやめられないから障害になる。
でも、私は強迫性障害の渦中にいるときに、強迫観念や強迫行為をばかばかしいとは思っていないんですよ。
本当に手が汚れたから洗う必要がある。本当に確認しないと危険だ。そんな風に信じています。
もちろん、やり過ぎていることはわかっています。けれども、やりたくてたまらない…いえ、やらなければいけない気持ちになるのです。
なので、「やめたいのにやめられない」ではなく、「必要がないことをやりたくなる」病気だと言うほうが合っています。
「やめたいのにやめられない」だと治療に向かいづらい
強迫性障害の説明として「やめたいのにやめられない」と言われていると、「病気だから仕方がない」と諦めてしまうのですよね。
自分ではコントロールできない。やめられなくても無理はない。だって、強迫性障害はそういう病気なんだもの。
私はそんな風に、強迫性障害は八方ふさがりで治せないと考えていました。
強迫性障害の治療は「やりたい」を「やめたい」に変える
ところが、強迫性障害の治療である認知行動療法の曝露反応妨害法は、強迫行為をやめる治療法なんですよ。
「やめたいのにやめられない」から苦しんでいるのに、やめるのが治療法ってどういうことなの!?と言いたくなります(笑)
まあでも、自分でも薄々と「強迫行為をやめるしかないだろうな」とわかっていましたし、やめたいとも思っているので始めたわけですが。
曝露反応妨害法を始めるときに大事だったのが、自分は強迫行為をやりたくてやっている、「自分が選んで行動している」という自覚でした。
そのうえで、本当に強迫行為をやめたいのだったら自分でやめられる!やめたい!に変えたからこそ、曝露反応妨害法ができるようになりました。
そこに「やめたいのにやめられない」が出てくると、悪循環に陥ってしまうんですよね…。
強迫性障害を取り巻く現状は「やめたいのにやめられない」病気だけれど「やめるしかない」ので、ややこしいです。
「必要がないことをやりたくなる」病気だから「やめよう」のほうが、治そうと意欲的になりやすいのではないかと思いました。