強迫性障害の不潔恐怖症になってから、着替えをしたあとは手洗いをしていました。
外から帰ってきたときの着替えではなく、外出前や家の中での着替え、お店での試着などのことです。
これは、私が日常的にやめたいと思う最後の症状でした。
ほかにも苦手なものやできないことはありますが、最初に曝露反応妨害法で課題を決めたときに、着替えに絡む「腰・太ももに触る」が最終課題でした。
どうしてもできなかったので、当時は仕方がないと思い、長いこと無理に治す努力はせずにいました。
着替えはトイレの汚れと直結しているので難しかった
私が着替えのあとで手洗いをする理由は、お尻や太ももには尿や大便の汚れがついているからです。着替えのときはどうしても触ることになり、耐えられませんでした。
これはとても中途半端な症状かもしれません。というのも、もっと不潔恐怖がひどければ、トイレのたびにシャワーを浴びて洋服を着替えるでしょうから。
お尻や太ももに触らずに着替えることもできるよ?という人もいるかもしれませんが、それは回避ですし、けっこう意識してやらないと難しいです。
普通はやらないことはわかっているのにやめられない
着替えのあとで手洗いをするかどうか。このことについて、私は何回考えたことでしょう。
強迫性障害になる前の自分がしていなかったことはわかっている。恋人もしていない。家族も友達もしていない。
学生時代、体育の授業のあとも部活のあとも、着替えのあとで手洗いに行く人なんていなかった。いたかもしれないけれど、ほとんどは洗っていなかった。
たしか、体育や部活が終わった時点で汗を拭いたり手や顔を洗ったりして、それから着替えていたように思う。
着替える前と後との2回洗うのが普通だとしたら、もっと手洗い場が混雑していたはず。
ネットで検索してもこの症状があるという人はとても少なく(いるにはいました)、苦しみました。
正しいか正しくないかではなく普通を基準にする
ここまでわかっていながら、手洗いをやめることはできませんでした。
そうですね、はっきり言いましょう。
衛生観念で言えば、私のほうが正しいと信じていたのです。正直、いまでもそれほど間違っていないと思います。
でもね、実際に汚れがついているかどうかを基準にすると、何もかもが汚れているのですよ。
私は悪化時には、ほぼ何に触っても手洗いをしていましたから、そのことはわかっています。
汚れているかどうかを基準にしてはいけない。科学的に物理的に細菌的に判断してはいけない。
普通はどうしているか。生活するうえで困る汚れなのか。普通になりたいなら、普通に合わせなくてはなりません。
着替えのあとで手洗いをするのは辛かった
着替えのあとで手洗いをするのは、たいした手間ではありませんでした。
強迫性障害になりたてのころはハンドソープを使ってしっかりと洗っていましたが、最近では水洗いでざっと洗うだけで、1~2分程度のものでした。
それでも、私には苦痛でした。
本当はやりたくない。やる必要がないこともわかっている。それなのにやらずにはいられないという、典型的な強迫行為なのが辛かったのです。
手洗いをするたびに、私はまだ強迫性障害なんだ、逃れられていないんだと突きつけられている気持ちでした。
手洗いそのものよりも、手洗いをしてしまう自分が辛かったのです。
ほかの日常的な強迫行為をやめて残りがこれだけになり、どんどん辛さが増えていきました。
あとこれさえやめれば楽になれるのに。そういう思いが日ごとに大きくなっていき、とうとうやめる決心がつきました。
曝露反応妨害法をした
やめると決めてしまえば、あとはいつも通り曝露反応妨害法をするだけです。着替えをしても手洗いをせず、そのままの手であちこちに触りました。
本当は、しっかりとお尻や太ももに触ったほうが効果的なのでしょうけれど、そこまではできませんでした。なので、曝露とは言えないのかもしれません…。
触らないように避けたり・回避はしないようにして、自然な動作で着替えるように心がけました。
最初の数回は我慢できずに時間が経ってからでも手洗いをしてしまいましたが、何度目かで手洗いをせずに済ませられました。
外出前の着替えのときは、その手のまま外に汚れをばらまくのが怖かったです。
でも、普通の人たちは手洗いしていないのだし、私も強迫性障害になる前はしていなかったはずなのだから、最初からどこもかしこも汚れているのです。
汚れよう、汚そうと思いました。
やっているうちに不安が下がってきて、手洗いをしなくても平気になりました。