強迫性障害の人は、している強迫行為の無意味さがわかっていると言います。でも私は、わかっているけれどわかっていない状態でした。
自分がおかしいことはわかっている!と思う一方で、だって実際に汚いんだものという、「汚い」という強迫観念が正しいという気持ちもありました。
強迫性障害のおかしさに気がついた
強迫性障害のおかしさに気がついたのは、トイレを回避してトイレに行けずに漏らしたときです。私はバカだ!と激しく後悔しました。
そのときの記事はこちら。
トイレで大失敗。でもこれが転機になるかもしれない
長い強迫行為を終わらせてお風呂の湯船につかりながら、二度とこんな恐ろしい失敗がないように考えをめぐらしました。
いま入っているこの水も、いつも綺麗になるためにすがっている水も、もとは「外のもの」なんだよなあ。外のものというか、動物たちの排泄物や死骸やいろんな汚いものが混じっていて、それを綺麗にして使っているだけなんだよなあ。
というか、空気にだってトイレの床をなでた空気やらなんやら…排泄物そのものも蒸発して混じっているんだよなあ。
必死で洗浄行為をしているけれど、洗うのに使っている水も完全に綺麗ではない。空気さえも汚いということに気がつきました。
私の強迫性障害の究極の終わりは、息を吸えなくなることだ!本当に汚いと思っていたら、息も吸えないはずだ!!
でも、私は息をしてる。してないと死んじゃうから、汚い空気を吸っている。というか、常に空気に包まれている。
私は自分ができる強迫行為しかしていないんだ、都合がいいものだけを選んでいるんだとわかりました。
強迫性障害でもすでに妥協していることはたくさんある
生きるためにはどこかで諦めなくてはならない。私は綺麗を守っているつもりでいながら、すでにいくつもの妥協をしている。
息を吸って、ごはんを食べて、トイレに行って、最低限の行動はしている。
強迫観念にまったく抵抗できないと思っていたけれど、生きるための抵抗はしていたのです。
それなのに、強迫観念に抵抗できない、あれが汚いこれはできないというのはおかしいと思いました。
綺麗と汚いの境界線を下げて現実に合わせる
私は妥協点が、最低限の生活ができるレベルになってしまっている。そうじゃなくて、普通の生活ができるレベルにすればいい。
綺麗と汚いの境界線を下げればいいんだ。強迫性障害を治すというのは、諦めて妥協して、現実と折り合いをつけることなんじゃない?
強迫性障害は生活に支障が出ると病気だと診断されます。生活に支障を出さないためには、現実に合わせるしかありません。
これが、私が本当の意味で強迫性障害の無意味さと矛盾に気がつき、強迫行為をやめる決意をしたきっかけでした。
もちろん、この前にも、こういったことを考えて妥協しようとはしていました。でも、その考えを本当には受け入れられていなかったのだと思います。
普通の人たちの「そんなことまで考えていたらきりがない・やっていられない」という言葉に、そんなことを言われても考えてしまう、やってしまう、そういう病気なのにどうすればいいの?と悩んでいました。
嫌な体験をして「このままではいけない」と痛感したことで、やっと本当に理解できました。