強迫行為をやめようとすると、本当にしなくて大丈夫かな?という不安に襲われます。強迫観念だとわかっていても、無視できない苦しさです。
強迫性障害が一番の問題だと気がついた
汚いままで生きていくと決めたとき、強迫行為(私の場合は洗浄)をやめて、もしも本当に何か問題が起きたらどうするのか?と考えました。
私の出した結論は、「問題が起きてもいい」「問題が起きてから対応する」「もうどうにでもな~れ」というものでした。
問題がどうのこうの言うのなら、いま強迫性障害で苦しんで時間をとられて、楽しい人生が過ごせなくなっていることこそが一番の問題。これ以上の問題なんてなにがあるのか。
そう思ったら、強迫性障害に対する怒りというか、逆切れというか、開き直りというか、そういう感情がこみあげてきました。
もともと私は、子供時代は心配性でストレスやプレッシャーに弱かったのですが、大人になるにつれてそれほどではなくなりました。
まだ起きていない問題のことを心配して不安に思う時間はもったいない。問題が起きたら対応すればいいし、終わったらいつまでも思い悩まなくていいという考えになったのです。
そんな私がなぜ強迫性障害になったのか…。
本当はこだわる性格だからこそ対処法を身につけていて、でもそれがほころびてしまったのかもしれません。
問題はすでに起きている
強迫性障害になってから、日々の細かい不便のほかに「なんでこんな目に…」と泣きたくなるような問題も、たびたび起きていました。
トイレを我慢しすぎて漏らしたり、洗濯物を何度も洗いなおしたり、トイレを詰まらせたり、化粧品を全部洗ったり、お風呂のドアを洗ったり、手湿疹が出たり。
病前よりずっと問題が増えています。いえ、それほどたいしたことではなくても、私が大問題だと感じることが増えています。
そのたびに苦しんできましたが、なんとか対応しました。すごく時間がかかったし、ダメージを何日も引きずったし、いまでもできることなら時間を戻してなかったことにしたいです。
でも、取り返しがつかないことなんてありませんでした。
「対応できるから大丈夫」と思うのも、強迫性障害にはよくない安心なのでしょうか。それともこれは、自信なのでしょうか。
どちらにしろ、すでに問題は起こり続けているし、強迫性障害である限り続くのだから、問題が起きてもいいと思いました。
問題が起きたらどう対応するのか。なんでもすればいい
もしも、問題が起きたらどう対応するのか?というと、なんでもすればいいと思いました。
拭いてもいい、洗ってもいい、捨ててもいい。いままで以上の対応できない問題が起きたら、発狂してもいい、逃亡してもいい。そのときになって、したいようにすればいい。
このころは、強迫観念にさらされているか、強迫行為をしているか、あるいは強迫性障害について調べているか…つまり、日常生活がほぼ強迫性障害一色になっていました。
発狂するのが怖い?怖くて死んでしまう?もうすでに、気が狂ったも同然になっているじゃないか。強迫性障害にがんじがらめにされて、息も絶え絶えになっているじゃないか。
こんな状態で生きるくらいなら、死ぬほどの勇気をふりしぼってでも強迫性障害を治そう。そう思いました。