棋士である先崎学九段が書いた『うつ病九段』を読みました。漫画『3月のライオン』の監修もされている人です。
私は強迫性障害がひどかったころ、不潔恐怖症に苦労しながら『3月のライオン』の新刊を買いに行っていました。
毎年1冊単行本が出るので、新刊を買うたびに病状が良くなっているのを実感していました。
2017年9月に発売された13巻には先崎九段のコラムがなかったのですよね。どうしたんだろうと調べたところ、お休みされていることを知りました。
ところが2018年7月には『うつ病九段』を出版されたので、回復の速さにびっくり。
そして2018年12月発売の『3月のライオン』14巻ではコラムの調子がやや変わっていました。少しくだけたというか、ぶっちゃけた雰囲気になっていたのです。
そこで先崎九段のうつ病はどのようなものだったのか興味がわき、『うつ病九段』を手に取りました。
『うつ病九段』の内容
『ふざけんな、ふざけんな、みんないい思いしやがって』空前の藤井フィーバーに沸く将棋界、突然の休場を余儀なくされた羽生世代の棋士。うつ病回復末期の“患者”がリハビリを兼ねて綴った世にも珍しい手記。
先崎九段がうつ病を患ってから回復していく様子が書かれた手記です。
うつ病のときに自分の状況を客観的に文章に残せる人は少ないのではないでしょうか。
精神状態やご自身の変化、もちろん将棋についても語られており、うつ病の人の日常生活と心の中がうかがえます。
うつ病が脳の機能を奪う病気だとわかりやすい
筆者も書かれているように、将棋という指標が脳の働きの変化をわかりやすく反映しています。
うつ病によってどれだけ頭が働かなくなり、そのどん底からどれだけ回復したかが明確です。
うつ病はよくなっているかどうかの判断がしにくい病気である。内臓の病気のように数値が出るものではないから、医者は患者の訴えを聞いて回復をはかるよりほかない。
<中略>
その点、将棋は絶対的なものだと気がついた。なんといっても勝ち負けがある。(100~101ページより)
本来ならば知能テストや脳の血流を測らなければわからないのに、将棋という物差しがある。回復へのモチベーションにもつながったことでしょう。
棋士としての最高位である九段が、簡単な詰め将棋さえもできなくなるという状況には説得力があります。
普通の会社員だったら、頭が働かないと言えば「仕事をしたくないのではないか」「なまけているのではないか」などと心無い言葉をぶつけられることもあるでしょう。
しかし、九段の棋士が将棋を指せなくなっても、「将棋をしたくなくなったのでは」と思う人は少ないのではないでしょうか。
将棋だと本人が望んでしている仕事だという認識があり、好きなこともできないなんてという印象になりますよね。
うつ病が本人の意思ではなく、脳の機能を奪う病気だということがよくわかります。
うつ病からの回復を支えた治療意欲と恵まれた環境
先崎九段が回復に向かったのは、将棋への熱意が治療意欲につながったというのが大きかったようです。
引退したら楽ではある。しかし、このまま引退しようと、あるいはこの世界を離れようと「将棋が弱くなる」ことに変わりはないのだ。(118~119ページより)
人は失うことを恐れる損失回避性があります。
失いたくないものがある人は強いし、治療に前向きになれます。
そう、先崎九段は仕事も休職しただけで失ってはおらず、家族の支えもあります。慶應義塾大学病院に入院ですから、経済的余裕もあるでしょう。
けれども、将棋を失うというのは棋士にとって「底つき体験」に相当したはずです。
回復の過程では散歩や将棋のリハビリ、そして本書『うつ病九段』を書かれていたそうです。
書き出してすぐに思ったのは、原稿用紙にコツコツ字を書いていると不安を感じなくなるということだ。本当に治るのか、社会復帰できるのか、果ては今後の人生がどうなるのか、そういう不安が書く作業によって軽減するのである。(177~178ページより)
不安を書き出すというのは効果がありますよね。
できる行動から少しずつ変えていくことが、良い変化につながります。
先崎九段は治療に意欲的ですし、言うまでもなく本来の能力の高さがうかがえます。
一方で、恵まれているケースでもあります。
うつ病を発症して早々に慶應義塾大学病院に入院。囲碁棋士の奥様と精神科医であるお兄様が相談して準備をしてくれたそうです。
慶應義塾大学病院は治療に絶大な自信があり、それを堂々と患者に伝えてくれる。
お兄様は精神科医。先崎九段は「健康オタク」と評していますが、お医者さんで健康オタクなんて最高じゃないですか!
LINEで相談すれば「必ず治ります」と励まして、治療についてのアドバイスもしてくれます。
アドバイスには身内ゆえの信頼関係と率直さがあり、いま治療中の人にも参考になるのではないでしょうか。
『うつ病九段』の感想
とても貴重な体験談でした。辛いお話ではありますが興味深く、文章も読みやすかったです。
『3月のライオン』ファンとしても、筆者の将棋に対する感覚や想いがライオンのあのシーンに反映されているんだというのも垣間見れました。
私は将棋は『3月のライオン』を読んでいる程度しかわかりません。が、先崎九段の監修のおかげもあり、棋士の九段がどれほどすごいことかは伝わっています。
そんな人が将棋を失い、再び現役として復活できた。そしてその体験を本人が執筆できるなんて、ものすごくレアな本ですよね。
うつ病の体験記として素晴らしいですし、うつ病を理解したい人にとってはおおいに参考になるでしょう。
精神科医であるお兄様は以下のように述べられています。
「人間というのは自分の理性でわからない物事に直面すると、自然と遠ざかるようになっているんだ。うつ病というのはまさにそれだ。何が苦しいのか、まわりはまったくわからない。いくら病気についての知識が普及したところで、どこまでいっても当事者以外には理解できない病気なんだよ。学はよくわかるだろう」(172ページより)
うつ病に限らず、病気は当事者以外には理解できないものです。
でも、この本を読んで少しは理解できたように思うのはいけないでしょうか。
私は自分でも強迫性障害になって何がなんだかわからなかったので、人が理解できなくても当然だと考えています。
逆の立場になったら「理解できないことを理解」はしたいですね。
病気はとても個人的なもので、その体験にも様々な形があります。
先崎九段の恵まれた環境を、参考にならないと切り捨てることもできます。
しかし、だからこその精神科医の率直な本音や、適切な治療を受けた回復例を見ることもできる本です。
「ある棋士がうつ病になって回復するまでの体験記」を読みたい人にはおすすめです。