手洗いをした記憶が無くても洗いなおさないことができた

強迫性障害が良くなってから、強迫行為にあまり集中しなくなりました。

それとともに、手洗いをしたかどうかが、わからなくなることが増えました。

わからなくなると手洗いをやりなおしていたのですが、ようやく洗いなおさずに済ませられるようになりました。

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強迫性障害のときと今の感覚の違い

強迫性障害の悪化時は、手洗いをしたということは覚えていました。

当たり前ですよね。

長々と手洗いをしていたのですから、まったくしていないと感じることはありません。十分にできている気がしなかっただけです。

で、今は「あれ?手洗いしたっけ?」とわからなくなるときがあるのです。

というのも、トイレの時間がしばしば「考え事をする時間」になっているのですよ。

トイレ後の手洗いのときも集中していないことが多いために、手洗いをしたかどうかがわからなくなってしまいます。

トイレに行ったことは覚えているのに手洗いだけが不安になるあたり、まだ手洗いには不安の種があるのでしょう。

強迫観念だろうと思いつつも、手洗いをした記憶がまったく消えてしまうので、すみやかに洗いなおしてしまっていました。

手洗いをした記憶が無くても洗いなおさないことができた

梅雨入りのころに調子が悪くなり、手洗いをしなおすことも増えました。

こんなに頻繁に手洗いをし忘れることはないはず。

そもそも、いくら強迫性障害が良くなったといっても、残念ながら手洗いをし忘れるほどではないはずです。

体調が落ち着くにつれて、これは強迫観念だ、なんとかしなくてはいけないという気持ちが膨らんできました。

そしてとうとう先日、「手洗いしていない気がする」と思っても、「忘れたなら忘れたでかまわない!」と、手洗いをやりなおさずに済ませることができました。

いつもなら手洗いしたかどうかを確かめたくて、手や指の間が濡れているかを見たり、手拭きタオルが湿っているかを確認するのですが、やめました。

そのかわり曝露のときのように、手洗いしていないかもしれない手で存分に顔に触り、体に触り、スマホに触って汚れを広げました。

不思議なことに、汚れを広げる動作をしてからは、手洗いをしていないのではないかと思うことがぐっと減りました。

強迫観念がわいてもじっと我慢するのではなく、汚れを広げる作業が肝心だと、あらためて思いました。

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